取り急ぎ(急いでないですが)生存報告はしておかねば、と思い重い腰を上げて記事を書きます。





生きてます。全くの無傷です。


記憶が新しいうちに、風化してしまわないうちにあの日の出来事を書き出してみようと思います。


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僕(rook_flyer)は3月11日の震災のとき、ちょうど京都にいた。

14時16分。京大の食堂「ルネ」でそこの友人と昼ご飯を食べに来て、友人のMacBookProでTwitterのタイムラインを眺めているときのこと。

―「地震」

全く同じ内容の発言がずらりと並んだ。文字通りどこかで地震が起こったのだ。

どこだ。震度はいくつだ。緊急地震速報は。
瞬時に複数の疑問が浮かぶ。程なくして地面がゆらりと揺れた。

そして、「三陸沖を震央とする最大震度7の地震」が起こったことをタイムラインの速報を見て知ったのだった。

友人も顔を引きつらせている。震度7とかありえない。これは夢か。きっと誰しもがそう思っただろう。
間髪を入れずに発せられる大津波警報。このとき既にいくつかの街は大波に飲まれていたという。人々に逃げるための時間は全く与えられなかったことを知ったのはだいぶ後になってからだった。

昼ご飯そっちのけで携帯のワンセグを起動する。普段は全くの無用の長物だけど、このときばかりは日本のガラパゴスケータイに感謝した。直ぐに電波が入らずチャンネル設定を京都のものにしていなかったことに気付く。すぐさま再設定して画面を食い入るように見つめる。まともに電波が入ったのはNHKだけだった。

すぐさまさっきの体感震度3ほどの地震が、東北に惨状をもたらしたことを悟った。
 

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旅行中にみたテレビには震災がらみのニュースしか映っていなかった。連日報道される岩手や宮城の崩壊した街並み、津波のライブ映像、そして福島第一原発。刻一刻と変わっていく状況、報道の嵐、デマ、Twitterでぶち上げられる陰謀論、被災者でない人々の怒りの声。それらを3日も聴けば気が滅入ってしまうのは必然だった。

東京の家に帰り着いたのは13日の夜中。部屋は旅行前と何も変わっていなかった。皿一枚割れていないという状況は誰かが僕を日常に引き戻したがっているようにしか見えなかった。

あれから1週間。状況はさしてかわっていない。「やっと」一週間が経過したのだ。やっと。。

交通こそ回復しかけているものの、計画停電のグループ4に配属されたため世田谷区役所のHPを毎日ぴりぴりしながらチェックし、被災していないにも関わらず人々が食糧を買い漁っているせいで米どころか肉や魚がまともに手に入らない生活が続いている。


終わりの見えない非日常がいまもここにある。


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幾分か装飾があるけど、これが僕が体験した「震災」の全てです。
もちろんこの状況は当然ながら現在進行形で続いていてこれで終わりとは到底言い難いですが。


既にこの震災で阪神淡路大震災を超える死者が出てしまったことは言葉に出来ない程の衝撃と悲しみを感じます。でも、起こってしまったことは仕方がない。現実に対して残酷だとか言うのはいくらでもできる。

…それじゃあ、「これから」のために僕たちに「今」できることは何だろう?

一つは義援金と寄付。これは個人が出来る被災地・被災者への支援としてもっとも効果的な手段となることは他の多くの方々や地方自治体や政府が述べているところです。
もう一つは、経済を一刻も早く停滞から脱出させることではないかと思っています。外食をする。東北で生産されている物を購入する。「普通に経済活動をする」ことが日本を支え、ひいては被災地を支えることに繋がるという長期的視点を持つこともすごく大切だと思います。


皆で協力して、一日でも早く誰もが望む「日常」に戻っていこう。



それじゃ、また後日。

この記事を読んでいるあなたに少しでも平穏な日々が訪れますように。